横浜 テニス発祥記念館

異人たちの足跡 10 居留地の女性たち

1869(明治2)年、山手公園ができる1年前に、横浜の港にオーストラリア産のすばらしい馬と、まぐさと、二人の若い娘を連れた男が降り立った。男の名はJ.H. ブルック(John Henry Brook)、娘たちは長女ガーティと次女マーベルである。女性の少ない居留地で、彼女たちはすぐに話題になった。特に長女ガティは巧みに馬を乗りこなし、またその美貌で男たちを釘付けにした。ピンクのサテンのドレスを着たガーティが、初めてダンスパーティーに現れた夜のことを、男たちは後々まで懐かしく思い出した。

ガティの父ブルックは、居留地の新聞ジャパン・ヘラルドの編集に従事し、後には社主になった。1879(明治12)年、ブルックはかつて暮らしていたインドから、ヒマラヤ杉の種子を取り寄せ、山手公園を含む山手一帯に播種した。

山手公園のヒマラヤ杉

ブルックが山手にヒマヤラ杉を植えた1879(明治12)年、第18代アメリカ大統領、グラント将軍は、離職後の世界旅行で日本を訪れた。横浜港に到着した一行は、7月9日に横浜で歓迎晩餐会に出席し、その後、芝増上寺にヒマラヤ杉を植樹したり(グラント松)、浜離宮で明治天皇に謁見した後、8月1日には横浜在住のアメリカ人夫妻による歓迎会に招待されている。なお、この歓迎会は山手公園で催された。偶然の一致か、または何らかの関係があったのか、ブルックがヒマラヤ杉を輸入したその年に、グラント将軍も、日本にそれまでなかったヒマラヤ杉をもたらしたことになる。

ところで、ヒマラヤ杉は、実は杉ではなくマツ科の樹木で、和名をヒマラヤスギという。さらに混乱を招くようだが、長らく山手公園では、ヒマラヤ杉は、ブルック松と呼ばれていた。

テニスコート

公園の入口から緩やかな坂道を下りていくと、左手にクラブハウス、その奥にテニスコートが見える。1870(明治3)年にできた山手公園は、日本で初めてローンテニスがプレーされた場所である。また、クラブハウスの右手には、開園当初とほぼ変わらぬ位置に、広い芝生とあずまやがある。あずまやは、何度か建て直しをしたものの、今もほぼ同じ外観のまま、その場所にある。

テニス発祥記念館

公園内には小さな記念館がある。ここには、古いラケットやボールなどの展示品とともに、テニスの歴史を見ることができる。1875(明治8)年に英国で初めてのローンテニス(芝の上でプレーするテニス)が行われると、たちまち全世界にテニスが広まった。もちろん横浜の英国人も例外ではなかった。翌年1876(明治9)年には、早くも山手公園で日本初のテニスが行われた。コスチューム、ラケット、ボール、どれもみな我々の知っている物とは異なる。中でも、1870年代に使われていたテニスボックスは、珍しい展示品だ。ラケット、ボール、ネットとともに、支柱までセットになっていて、平地があればどこでもすぐにテニスをすることができるようになっている。また、女性は短いスコートではなく、華やかなロングドレスでプレーしたようである。長いスカートを「スカートつり下げ器」なるフックでほんの少しだけ引き上げて、優雅にボールを打った。

テニスを楽しむ女性たち

1876(明治9)年6月17日号の英字新聞ジャパン・ウィークリー・メールの記事には、ローンテニスを楽しむ女性の様子が記されている。

『・・・婦人たちが手に軽くラケットを握って、それを振るのはとても優美だ。どんな動きも魅力的に見せる女性がいて、男性の巧みなショットよりも、ずっと観客を喜ばせた。』

山手公園の設立に活躍したW.H.スミスは、山手にヒマラヤ杉を植えたブルックの長女ガーティを妻にする。スミスとガティも、かつてこのテニスコートを走り回っていたのかもしれない。

山手公園は、JR石川町駅から徒歩10分ほどの場所にある。テニス発祥記念館を見たり、ベンチに座ってさわやかな空気を吸い込んだりして、ヒマラヤ杉の木陰で癒しの時間を過ごしてみてはいかがだろう。

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