横浜 開港資料館

異人たちの足跡 6 ペリーの外交

東インド艦隊指揮官、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1853(嘉永6)年に浦賀の西、久里浜に来航した後、日本との正式な国交樹立を目指した。そして1年後、日本側の返答を求めて2度目の来航を果たす。横浜開港資料館は、ペリー再来の地にあり、日米和親条約を締結した横浜応接所の位置に当たる。資料館には港町ヨコハマの歴史に関する様々な資料が保存、展示されているが、何よりも資料館そのものが、近代横浜の記憶装置として街の歴史を語っている。

開港資料館

開港資料館は、旧英国総領事館である旧館と、展示室や講堂、閲覧室を備えた新館からなる。正面入口から入って、中庭の向こうに見えるのが、旧英国総領事館を利用した旧館である。見学できるのは、記念ホールとして公開されている旧待合室と、入口すぐ右にある電話室、右手の廊下から出口までであるが、ドアの傷や廊下のきしみ具合にも、歴史の趣がある。廊下には、赤、白、金に彩色された英国総領事館の紋章が飾られている。

資料館のある新館は、正面入口を入って左手である。1階展示室ではペリー来航と、その当時の世界情勢などの展示がある。2階は、開港後の横浜の歩みと、横浜の街の変遷、横浜で暮らした人々についての資料の展示室である。また地階は資料閲覧室となっていて、居留地で発行されていた新聞や、明治大正期の写真・地図などの画像資料、25万点が収蔵されている。展示室の入館料で、閲覧室にも入ることができるので、是非のぞいてみたい。なお、文献のコピーをとることはできるが、資料の貸出しはしていない。

この項では、開港資料館に展示されている写真や模型、および、横浜市ふるさと歴史財団編集の『横浜 歴史と文化』、横浜開港資料館編の『ペリー来航と横浜』を参考にしながら、ペリーが横浜で過ごした2ヶ月余を追ってみたい。

日米和親条約締結

1854(安政元)年1月、日本からの返書を受け取るため、ペリー艦隊は再び日本を訪れた。前回の測量で江戸湾の海図を作成していたため、ペリーの黒船は浦賀を越えて江戸湾に進入し、充分な水深のある金沢小柴沖(現八景島の沖合)に投錨した。慌てた幕府側は、大学頭、林復斎らの幕府側の代表団に、できるだけ結論を先延ばしするよう指示をした。一方のアメリカ側の代表、アダムス参謀は、譲歩する姿勢は一切見せないよう命じられていた。条約締結やむなしとした幕府だったが、黒船を江戸湾からできる限り遠ざけておきたかった。そこでアメリカ側に、鎌倉か浦賀での会談を提案したが、アメリカ側はあくまでも江戸の近くを主張した。そのため両者譲らぬ膠着状態となる。約10日間、水面下での交渉が続けられた。ペリーはさらに、艦隊を江戸近くまで進めた。この威嚇行為の後、追いつめられた幕府側は、(何もない)横浜村を指差して、妥結点を求めた。条約締結に向けた日米会談が、横浜で開かれることに決まった瞬間だった。

2月、九隻の艦隊が横浜沖に碇泊し、ペリーは前回を大きく上回る500人を上陸させた。艦隊からは57発の祝砲が打たれた。会談は計4回、横浜の応接所で開かれた。会談の合間には、贈答品のやり取りや、饗応などがあり、次第に日米の心の距離が埋まっていく。

そして3月、日米和親条約が調印された。なお、条約締結に際して、ペリーは詳細な日本の記録を残すために、画家、写真技師、ジャーナリスト、生物学者などを随行していた。その中の一人、ドイツ系アメリカ人画家のウィリアム・ハイネは、横浜上陸時や日米代表者の会食の模様など、多数の絵を残している。

日米交流

ペリーの横浜上陸の場面は、ハイネの『横浜上陸』がよく伝えている。整列する幕府側の役人と、制服姿で行進するアメリカ兵、近郊から見物に集まった大勢の日本人たち。そして画面の右端には、青々と茂った一本の木が描かれている。この木、『玉楠の木』は、150年前の歴史的瞬間に立ち会った証人ということになる。火災や関東大震災、第二次世界大戦の横浜空襲などで、幾度となく瀕死の状態になりながらも、『玉楠の木』は、横浜開港資料館の中庭で、今も元気に生き続けている。

ところでアメリカは、将軍をはじめ、交渉の場に臨席した幕府の高官から役人のために、様々な贈答品を準備していた。それは織物、革製品、武器、鏡、望遠鏡、柱時計、酒など、アメリカの文化を象徴する品々だった。ペリーの目的は、幕府の役人一人一人に、開国して通商を行うことのメリットをアピールすることだった。中でも、汽車の模型は、日本人の好奇心を大いに刺激した。ハイネはその様子も記録している。『汽車の模型』は、アメリカが幕府に贈呈した汽車模型を披露する場面である。横浜村にループ型のレールを設置し、役人の河田八之助が乗った1/4スケールの蒸気機関車を時速32kmで試走させた。ペリーは『日本遠征記』に、歯をむいて振り落とされないように汽車にしがみつく河田の様子を記載している。一方、河田は日記に、この時の体験と汽車について、「火発して、機活き、筒煙を噴き、輪皆転じ、迅速飛ぶが如く」という客観的な記述を残している。科学技術に対する河田の冷静な観察眼が感じられて、興味深い。

瓦版のペリー

当時の瓦版には、ペリー来航のショックと、その後の人々の関心の高さを示す記事が残っている。たとえば、ペリーの顔は多くの瓦版に描かれたが、どれもことごとく異なる。そのほとんどは、実物を見ずに、想像で描いたものであるというから、記事の正確さよりも売れ行きを意識したのであろう。この辺りの感覚は、現代と大差ないようだ。とりあえず載せた記事であっても、瓦版はよく売れたようで、多くの日本人が、ペリーの顔を見たいと思っていた事実がうかがい知れる。

力士登場

日本が返礼としてアメリカに贈呈した米200俵は、江戸から力士を呼びよせて運んだ。1俵約60kgの米俵を、力士たちは軽々と2俵担いだ。その姿を見て、アメリカ兵の何人かが真似をしようと試みるが、1俵を持ち上げるのもままならない。この時の模様は、瓦版の『力士力競』で広く伝えられた。

饗応合戦

さて、外交には饗応がつきものである。最初の会談の後、幕府は御用達の料理屋に300人前の昼食を用意させた。まず酒と吸い物、50種類の肴、本膳、二の膳、三の膳、そして海老糖のデザートが続いた。料理の種類は100を越えたというが、アメリカ側の反応は今ひとつだったようだ。ペリーの『日本遠征記』には、軽食が出されたと記述されている。美味しいものを少しずつ、という和食の粋は理解されなかったようだ。

一方のアメリカ側では、ペリーが外国人の味覚を満足させるために選んだフランス人シェフが腕を振るった。食事の前には、招待した約70名を、マセドニアン号とボーハタン号の艦内に案内して、好奇心旺盛な日本人の目を楽しませた。その後、旗艦ボーハタン号で、極上のワインやマラスキーノ酒が振る舞われ、ビーフ、マトン、貯蔵肉や魚、西洋野菜の数々がテーブルを飾った。アメリカ人も日本人も、大いに飲み、食べて歓を尽くした大宴会となった。酒が回って陽気になった幕府応接役の松崎満太郎は、ペリーの首に抱きつき、「日本とアメリカ、心は一つ」と何度も繰り返したそうである。

ペリーの勝利

まずは圧倒的軍事力を見せつけて恐怖に訴え、後に贈答品や饗応によって友好を求めるというペリーの戦略は、見事に成功した。すっかり打ち解けた(と感じた?)日本は、アメリカの真の目的を探る術もなく、その4日後、日米和親条約に調印した。

横浜開港資料館では、年に4回企画展を催している。毎回充実した内容の展示を見ることができるので、繰り返し訪れる人も多い。横浜開港資料館は、学校で習う歴史とは、ひと味違った歴史散歩を楽しめる資料館である。

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